廃刊になってネットで活動して、また紙を出すという、ワイアードなんかもそうだけど
そういうことなんかな?と思わせる存在。
前からあるグラフィック志向は健在で、尚且つ今回はBEAMSについての号なので
それはもう得意分野ですよね、直球ど真ん中ですよね、というもの。
ルーエでスタジオボイスを買う。BEAMS特集。実質コラボマガジンみたいなもの。
廃刊になってネットで活動して、また紙を出すという、ワイアードなんかもそうだけど
そういうことなんかな?と思わせる存在。
前からあるグラフィック志向は健在で、尚且つ今回はBEAMSについての号なので
それはもう得意分野ですよね、直球ど真ん中ですよね、というもの。
ネットの普及が原因だと思うのだけど、どんな物事にも文字で批評なり解説なり感想なりが付随するようになった。そしてそれが現代社会に生きる人間の習慣のひとつ、のようなものになりつつある。たとえそれを自分がしなくたって、他の誰かがネットに書いてるだろう、なんてことを思ったりするし、実際そういうことが多い。マジョリティであればあるほどそういう傾向にある。あまちゃんとか。
それは、そういう情報消費という行動なんだと言ってしまえばそれまでなんだけど、ただただ紙をめくって、そこにある写真や文章をへええって眺めるだけの行為が、どうにも薄っぺらい、なんか損してる、何かアクションしないと、みたいな錯覚を受けるようになったんではないか、なんて考えたりする。
ネットならもっともっと、いくらでも情報が取り出せるし、それがすごく簡単だ。いくら編集されたとはいえ紙の雑誌をめくるのはかったるいし、その割に内容は足りないし、どこか勿体無い。マウスのホイールを回せばあっという間に終わってしまうような物にお金をだすなんて!みたいな感覚。
これは、必ずしも間違ってない。ただその一方で、では情報が沢山自分の思うようにあれば満足か?という疑問も浮かぶ。
誰かに編集された抑制された情報を楽しむことだって自由だし、誰かの編集作業によって受ける何かしらの心地よさは、自発的に探さないといけないネットではなかなか味わえない種類の快感だ。誰かがわざわざ時間と手間、経験とアイデアを駆使して編集してくれたものを、たいして咀嚼もせずに眺めて時間を潰す。なんて贅沢な行為なのだろうか。揺り戻しが起きることに期待する。
今、スタジオボイスがBEAMSを特集するというのは、もしかしたらまたそういう空気かくるんではないか?なんてフワッとしたことを感じた。そういった社会の感覚が過去にあったような気がするし、もしかしたらその頃のような時代に戻りつつあるのかも知れない。その時代というのは具体的にいつなのか?高度成長期なのか?バブル期なのか?90年代なのか?
あまちゃんで春子が灯台の根元にラクガキした憧れの東京が、今はもうなくなってしまった、もしかしたらもう二度と帰ってこない、ひょっとしたら元々存在しなかったかもしれない、東京の輝きの一部がそこにはあるのかも知れない。そんな気がした。
もうそういうのはいいからと疎まれる老害のノスタルジーで無いことを祈る。