3月11日新宿から歩く2011-03-13

3月11日新宿から歩く
3月11日金曜日午後、打ち合わせを兼ねたランチに招待され新宿へ。

打ち合わせが終了し、トリハルさんの3回目の記事をアップすべく、京王線新宿駅2番線ホームの各駅停車の発車を待っていたら、乗客が一斉に降りたときのような揺れがした。
はじめは電車は揺れることもあるので、そんなものかと思っていたのだけど、なかなか揺れがおさまらない。
これは何かあったと思いプラットホームに出たらガタガタっと音をたてて揺れはじめた。どこかにつかまらないといけない揺れではなかったが、まっすぐ歩くのは難しい感じ。近くにいたお年寄りは柱につかまっていた。
駅員さんが「落ち着いてください」と声をかけながらやってきた。まだ揺れはやまない。船の上にいるような感じ。長い。不安そうなお年寄り。
「ずいぶん揺れが長いですけど、地下だから余計なのかもですね」自分を落ち着けるためにも駅員さんに話しかけ、とにかく平静でいようとする。エスカレーターも動いているし、大丈夫だ、と。

地震が収まった直後、構内放送で「東京、震度5」とアナウンスが。5弱か5強かわからないけど、4よりも大きい地震。
「線路の安全確認が入るから電車はしばらく動かないですよ」という駅員さんの冷静な言葉で我に返り、ひとまず地上に出ようと、ルミネの方の改札から西新宿一丁目の交差点に出る。

人は大勢いたけれど、新宿は普段から人が多いので、そんなに大変な感じはしない。よくよく見ると、カラオケボックスから慌てて出てきたらしく、伝票を片手に持った女子高生なんかもいる。車は通常通り走っていた。余震でハンドル誤ったらまずいなと思うくらい普通に走っていた。
ワンセグを見ている人達の声や、自分も携帯電話でツイッターを見たりして、かなり大きな地震で津波もすごいのが来るらしいということはわかった。

笹塚の自宅にいる妻には電話は当然通じなく、ショートメールも送信できなかった。ツイッターが出来るくらいなんだからとEメールで送信したメールは届いていたらしいが、返信はセンターで止められており、センター問い合わせまで知恵がまわらず、結局連絡が届いているかわからなかった。
電車が動くまでどこかでお茶でもと一瞬思ったが、同じように考える人も多かったようだし、連絡が出来ない状況を考えると、これは歩いて帰った方が良いと思い歩き出した。

自宅の笹塚までの道はすごく簡単だ。甲州街道を延々歩く。遅くても1時間弱で着く。
実際に歩いたルートはこんな感じ。

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少しずつ新宿駅を離れて、やはり人が大勢外に出ていると感じる。歩道に人がずっといる。西新宿は普段こんな風ではない。
文化女子大のところでは、卒業式だったのかハイカラさんの格好の子や関係者、近隣の人などなどでとにかく沢山の人。大きい余震に驚いて座り込んだり、西新宿のビルがすごく揺れているのを見つけて驚いたり、とにかく騒然としていた。
パニックに巻き込まれるのだけは避けようと思い、携帯片手にとにかく歩く。途中、メールを送ったり、ツイッターを見たり、携帯電話が通じるというのは、とても有難いものだと思う。

山手通りの交差点にある吉野家では、お客さんが普通に牛丼を食べていて、日常と非日常が混乱する感じを味わう。
これ以上の大事にならないように、これからも牛丼が問題なく食べられるよう祈りながら歩いた。スクウェア・エニックス社のスライムのディスプレイも崩れておらず、大丈夫、大丈夫と思いながら。

初台駅を過ぎる。小さな電気屋さんの店先のテレビで大勢の人がニュースを見ていた。パッと見ただけでも大変なことがわかる。家へ急ごう。
玉川上水の緑道を歩く。外に出ているのは近所の人達ばかりなのか、どこかのんびりした雰囲気。まるで日向ぼっこに出てきているよう。
子供たちはブランコ遊びをしていた。野良猫は何かに気づいていたのか神妙な顔つきをしていた。
消防学校は、訓練なのか、これからの準備なのかグランドに沢山の消防車が出ていた。頑張って。
アコースティックギターを爪弾いている人がいた。状況がわかってそうしているのかどうかはわからないけれど、ゆったりした静かな音色は心を落ち着ける。状況によっては難しいのかも知れないが、音楽の力も頼もしい。

帰宅。妻は無事で、緊急持ち出し袋の用意などをしていた。高いところに置いてあった物が落ちたくらいで問題はまったく無かった。
テレビやインターネットの向こうは、とにかく大変なことに。中越地震の時は、実家や友人達が現場にいて、色々な話を聞いているが、とにかく頑張ってほしいと思った。先は長いけれど、ずっとこれからも頑張ろう。

東京は前からこういう災害の際、帰宅困難者が大量に発生するという話があって、心配もされていた。実際、自分がすれ違った人達も帰宅するまでに随分時間がかかってしまった人も大勢いたことだろう。友人の中も会社で夜を明かして、翌日帰宅した奴がいた。
さまざまな施設が、帰宅できない人達のために場所を開放したり、トイレや毛布やあたたかい飲み物、テレビやインターネットを提供していた。公的な施設や大きなホテルだけでなく、ライブハウスやクラブなんかもそうだった。都会は、どこまで行ってもお店があるのが当たり前といえばそうなんだけど、それらの多くが大変な人を温かく迎え入れてくれるのだとしたら、一般に言われるような都会の冷たさなんかとは少し違った、安心できる場所なんじゃないかと思った。
自分に何が出来るか、約束は出来ないけれど、これから先も日本社会の中に生きる人間として一緒に頑張っていけると思う。きっと大丈夫だ。

トリハルさんが、今回の件に関しての記事や、むつみ荘の続きをアップしています。日常を取り戻そうと頑張るトリハルさんに敬意を表します。

3回目のインタビューはもう少ししたらアップします。