タピオカ熱の現実感のなさ2019-06-01

今週は辛い事件があって、どうせ知らなくても良いことまでほじくり出して何度も何度も詮無い憤りを作り出す状況になるだろうと思い、夜はずっとParaviで逃げるは恥だが役に立つを見ていた。
逃げるは恥だが役に立つ
時間が経ってから見直すと眼の前にある社会状況を面白く描いたドラマではあるけど、絵面としての現実感はあんまり無いことに気づく。
ドラマの説得力やキャラクターの存在感といった意味では全く問題は無いのだけど、現実ではありえない点を指摘しようと思えば幾らでも出てくる。ただそれが番組を壊してしまわないバランスがとても良くできていて、むしろドラマの世界に行ってみたいという気持ちにさえさせられる。平成になってからずっと続いた手法通りのドラマだ。

偶然、金曜日の夜にNHKでやっていた「金曜日のソロたちへ」でも「ドラマと違って一人暮らしは部屋が汚い」という感想が出ていた。まったくその通り。平匡さんの部屋は現実感が無い。

気づけば吉祥寺はタピオカ屋だらけになっていて、どこも行列になっている。今までこの人達はどこにいたんだろうかと考える。これだけの人数をスタバが相手にしてたわけでも無さそうだ。
多くが10代の若い人たちで少子化なんていうけれど、こんなにあっちこっちに若い人がいるじゃないかなんて思ったりする。それは自分に見えている範囲なだけで実際はもっともっと大勢いないとマズいのかも知れないし、そうだとすれば吉祥寺はハモニカ横丁とかやってる場合じゃなくて、もっともっとこういうタピオカ屋が必要だし、韓国のファストフード屋もあって良いのかも知れない。

MIYAKEだった人達がしばらくやっていた小さい雑貨店のところもタピオカ屋になる。そんな雑貨店があったことを覚えている人がどれだけいるんだろうかと思うような場所でもタピオカ屋ならやっていけそうだ。
一年後にどうなっているのか、もしかしたら定着して吉祥寺はタピオカの街になっているかも知れない。それはそれで面白いし、もしかしたら近隣の高校なんかではすでにそんな風に見られているかも知れない。放課後に毎日行っても一週間ずっと違うところに行ける。

現実というものは人それぞれだけど、それでも多くの人が共感したり納得できたり違和感を感じないで済む事柄があって、それは自然に出来上がるものばっかりじゃないということ、情報化社会が進んできたからこそ気にした方が良いのかも知れない。